芸能

【ブレイキン】風見しんご 日本のブレイクダンスの先駆者!「涙のtake a chance」披露までの苦労とは?!

芸能

2024パリオリンピックで初登場のブレイキン

チケットが一番最初に売れ切れた種目と言われています。

今から遡ること、40年前。

日本にブレイキン(ブレイクダンス)を持ち込んだ人物がいました。

風見しんご

当時の芸名は風見慎吾

そのころ、すでに歌手デビューし、お茶の間の人気者でした。

そんな風見しんごさんが、ブレイキン(ブレイクダンス)と出会い、
どういった経緯でテレビで披露することになったのか調べてみました。

しばらくの間、お付き合いください。

ブレイキンってなに?

ブレイキン、別名ブレイクダンス。

ブレイクダンスという呼び方は、メディアが間違って
広めてしまった呼び方なのだそうです。

まずはその歴史から見ていきましょう。

ブレイキンの歴史

1970年代初頭、アメリカ・ニューヨークのスラム街。

ギャングの構想が激化していました。

見かねたDJだったギャングのボスが「暴力ではなくダンスで勝負を」と提案し、
身体表現で勝負するようになったのが、ブレイキンの始まりだと言われています。

その後、1982年に公開された映画「ワイルド・スタイル」で全世界にブレイキンが
知れ渡ることになります。

そして、1984年の「ブレイキン(邦題は「ブレイクダンス」)が日本でもヒットしたことで
日本では、「ブレイクダンス」として認知されました。

ダンスでの戦いは、技、身振り、手振りも含めて個性をぶつけ合って白熱し、
戦いが終れば、ハグや握手をしてお互いをリスペクトする

なんか、とっても素敵ですね!

オリンピック種目だけどどうやって競うの?

選手は赤と青のコーナーに別れ、1対1でそれぞれソロのムーブを交互に踊り披露します。

これを「ソロバトル」と言います。(殴り合わないボクシングと言われている)

チーム戦、個人戦がありますが、チーム戦でも、一人がムーブする間は他のブレイカーは
邪魔しないように離れています。

ステージには音楽を流すDJとその場を進行するMC、そしてジャッジする審判が5人。

5人の審判員は、「技術性」「多様性」「完成度」「独創性」「音楽性」の5つの基準に
基づいて採点を行います。

審査中は、各審査員がタブレットを使用してそれぞれの要素の特典を評価していきます。

 【風見しんご】日本におけるブレイキンの先駆者

日本に最初にブレイキンを広めた先駆者は、風見しんごさんです。

当初の芸名は風見慎吾さんでした。

彼がブレイキンに出会い、テレビで披露するまでの道のりを
調べてみました。

風見しんごさんプロフィール

http://www.forlife.co.jp/artist/fl00030
風見しんごさんプロフィール
  • 1962年10月10日(61歳)
  • 広島県広島市出身
  • 169cm、A型
  • 広島市立己斐小学校卒業
  • 広島学院中学校・高等学校卒業
  • 成蹊大学卒業
  • 俳優・タレント・歌手・ダンサー

芸能界デビュー

1981年に成蹊大学に入学し、上京した風見しんごさん。
原宿の歩行者天国でパフォーマンスをしていた、哀川翔さんに憧れ、
「劇男・零心会」(のちの一世風靡セピア)のメンバーとなる。

1982年、TBSテレビ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」のオーディションで、
萩本欽一に挨拶すると、「元気だね、合格」とあっさり選ばれ、芸能界デビュー。

欽ちゃんファミリーの一員として活躍するテレビタレントとなり、
1983年には、「僕、笑っちゃいます」でレコ―ドデビュー。

ブレイキンとの出会い

1983年映画「フラッシュダンス」(エイドリアン・ライン監督)を都内の映画館で観る
機会がありました。

その中の本の数十秒のシーンに風見さんの目が釘付けになります。

子供たちが路上でバックスピンをしている、というシーンです。

「なんだこの動きは・・・?!」

「なんだこの動きは・・・?!」

「なんだこの動きは・・・?!」

「なんだこの動きは・・・?!」

風見しんごさんは一瞬でその動きの虜になったといいます。

この時すでに「僕笑っちゃいます」でヒットを飛ばしていた風見さん。

コンサートでブレイキンを披露したいと思い立ちます。

大将の欽ちゃんに相談したところ、「やるなら本気でやれ!」とはっぱをかけられ
単身アメリカへ!

本場アメリカへ

日本にはあの映画のダンスを踊っている人はいない。

それなら、あの映画の場所まで行くしかない!

ニューヨークのダウンタウンへ毎日足を運び、踊っている人たちを
見よう見真似で研究し、本場のダンスを自分のものにしようと必死だった。。

10日間の間、片言の英語でダンスの技術を学んだ。

あまりの熱心さに現地のダンサーたちは、「自分たちのダンスを収めた良いビデオがあるから、
これを日本に帰ってから観るといいよ。」と、ビデオを売ってくれたそうです。

勧められるままに何人かのダンサーからビデオを購入。

帰国後再生してみると

風見さん
風見さん

全部内容は同じだった・・・

という。

ブレイキンをテレビで披露するまで「大変」の連続でした

80年代の芸能界でブレイキンをテレビで披露するのは
大変」だった・・・・。

今なら、売れっ子タレントが現地へ行って、新しいダンスを学んで帰ってきた!
と、話題になったりしますが、当時の芸能界では「大変」でした・・・。

そこに突破口を開いてくれたのが、当時「視聴率100%男」と呼ばれた、
大将の欽ちゃんこと、萩原欽一さんだった。

「欽ちゃんの週刊欽曜日」の企画会議で、風見さんにエンディングの曲を歌ってもらう、
という話が持ち上がりました。

その歌は後にアイドルグループ「わらべ」が歌うことになる、「時をとめて」という
バラード曲でした。とても素晴らしい曲だったそうです。

でも、そこで風見さんはまさかの行動に出ます・・・。

風見さん
風見さん

「あの、別にやりたいことがあるんですが・・・」

会場が一瞬で凍り付きます。芸能界で絶大な影響力を持つ萩本欽一さんに、
デビュー間もない若手タレントが番組演出について意見したのですから、大変です!

制作スタッフからは

スタッフ
スタッフ

「お前は何を言っているんだ!」

「100年どころか一万年早いわ!!」

と言われてしまい、まさに針のむしろ状態でした。

そんな風見さんに、萩本さんが言いました。

萩本さん
萩本さん

「じゃあ何がやりたいんだ?ちょっと見せてみな」

風見さんはその場でニューヨークのダウンタウンで学んできた、
最新のダンスムーブを披露しました。

それも国内ではほとんど知られていないダンスでした。それを見て、萩本さんは、

萩本さん
萩本さん

「う~ん・・・、よくわからないなぁ・・・・」

ムーンウォークにいたっては、

萩本ささん
萩本ささん

「前に進みたいんだか、後ろに行きたいんだかどっちなんだ・・・」

と、、切り捨てられる始末・・・。でも、同時にこうも言われた、

萩本さん
萩本さん

「面白い動きではある」

しばらく考えて、萩本さんは周囲にいたスタッフに言った、

「しんごのこの動きに合う曲をレコード会社に持ってこさせて」

その一言で,針のむしろ状態だった風見さんは救われました。

そして、その日のうちに届いた曲こそが、「涙のtake a chance」だったのです。

まさに鶴の一声でした!

ブレイキンをお茶の間に広めた、欽ちゃんのアドバイスとは?!

結局、萩本さんは、バックダンサーをテレビに出演させることにも「OK」だし、
風見しんごさんの希望を全部叶えてくれたのでした。

でも、一つだけ、風見しんごさんにアドバイスをしました。

それは、

萩本さん
萩本さん

「凄いものを見せるだけではいけない」

ということでした。

練習すれば、自分にもできるかもしれない!

と視聴者に思わせることが、ダンスを広めるために欠かせない、ということでした。

「テレビの中の風見しんごや、バックダンサーたちも失敗している」

自分たちが練習して上手くいかなくても、「テレビでも失敗していたから仕方ない」

となって、自分たちの技の未熟さが受け入れられるきっかけにもなった

萩本欽一さんの言葉通りでした、と風見しんごさんは仰っています。

萩本欽一さんって、すごい人なんですね!

 まとめ

いかがでしたでしょうか?

新しいものに「ピン!」ときて、その技を習得し、世の中に出す。

何も知らない、はじめて見る人たちにもインパクトを与え、
良いと思ってもらうことって、至難の業なんですね。

それをやってのけた風見しんごさんって、やっぱりすごい人なんですね~

その風見しんごさんを世に出した、萩原欽一さんも凄い人なんだと
思いました。

40年前に風見さんが日本にブレイキンを持ってきたから、
日本のブレイキンの選手層が厚くなり、国際試合でも競い合える
レベルなったんだと思います。

風見しんごさん、たまにはテレビでブレイキンを踊ってくださいね!!


コメント